【うら子の部屋】コラムその③ 浦和フィルの歴史と代表の想い〈創成期編〉

こんにちは(^^)
司馬遼太郎を敬愛する私としては、「ところで浦和フィルの歴史ってどんなんだったわけ?」と、そこを押さえないと意味ないじゃんくらいに思ってます。
ちょっと調べてみたら、代表から胸アツな原稿をいただきました!浦和フィルのこれまでとこれからの物語を、3回に分けて紹介します!
 今回は創成期編です。

1986年(26歳)のある日、上野の東京文化会館小ホールで知人の作曲家の新作披露コンサートがあり、聴きに出かけると客席で音楽監督・佐藤寿一氏に会いました。佐藤氏は私の高校の吹奏楽部で一年先輩の間柄です。
佐藤氏から話しかけられました。

「浦和でオーケストラ始めたから来ないか?」
「行く!」
こう即答したのが始まりでした。
「じゃあ土曜の6時に!」

週末、時間通りに浦和市文化センター(現・さいたま市文化センター)の練習室に行くと、集まっていたのはたった5人。皆それぞれに楽器を練習していましたが、そのうち誰かがふざけて「ラジオ体操」をピアノで弾き始めると、皆も大笑いしながら体操を始めたり。ともかく練習にならないので切り上げて飲みに行き、大いに盛り上がり終電で帰宅しました。最初の頃はそんな状態が続きましたが、徐々にメンバーも増え、オケらしくなり、練習にも熱が入るようになり、「こうもり」序曲・ハイドンの主題による変奏曲・新世界の熱演で、第一回定期演奏会は無事に終了しました。

当時の思い出は、練習のたびにとにかく良く飲んだことです。他愛もない冗談や、好きな音楽について語る時間は楽しく、あっという間に終電の時間を迎えるわけですが、浦和フィルの活動としての方向性や夢についても、随分と語り合いました。

「東京に行けば演奏会が山ほどあるが、演奏する方にも聴く方にも、浦和という地元に根ざした活動でこそ得られるものを目指したいね」

「根無草ではない活動として演奏者と聴衆の交流・オケの舞台裏の見学ツアー」
「市民に呼びかけて第九をやろう」

これらは、おそらく多くのアマオケが取り組んでいる施策で目新しいものではないと思いますが、自分たちの頭で考え自ら実行することに意義があります。

これらは、後援会の設立と運営、「浦和の第九」シリーズ、室内楽演奏会、小学校・公民館やイベントでの演奏などの形で結実させてきています。

続く

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