【うら子の部屋】コラムその④ 浦和フィルの歴史と代表の想い〈転換期編〉

こんにちは(^^)
シリーズでお伝えしている「浦和フィルの歴史」。今回は転換期編です。順風満帆なスタートを切ったかのように見える浦和フィル。しかし時代の流れとともに転換期が訪れます。はたしてどのような展開になるのか!?
ここ、試験に出ますよ〜!

浦和フィルの歴史を振り返ると、大きな転機が2回ありました。

第一の転機は、設立10年目の頃に訪れました。設立当初には、様々なことにチャレンジしたいという意欲のほうが勝っていました。団員が15名しかいないのに120名規模の曲を演奏したり、市民から合唱団を公募して「第九」演奏会を毎年開催するなどの活動を精力的に展開しましたが、団の規模と実力を超えるこうした取り組みに、財政的・運営的な運営負担の皺寄せが団員に大きくのしかかり、一時は解散も検討せざるを得ない状況に陥りました。その状況を打破するために団員全員で相談し、「身の丈に合った活動」を行うことに決めました。これが第一の転機となりました。

演奏するレパートリーを古典中心の小編成な作品を中心とすることで、財政的にも無理をしないよう留意し、かつ高い演奏レベルを保てるように練習内容を工夫すること、全員参加の運営で足元を固めるよう運営体制を見直しました。すると、その効果はすぐに現れ、当時の彩の国さいたま芸術劇場の諸井誠館長に我々の演奏を認めていただき、「彩の国シューベルトシリーズ」のお声かけをいただくことに繋がりました。2001年より5年間をかけてシューベルトの交響曲全曲を演奏したことは、その後の浦和フィルにとって大きな糧となっています。

第二の転機は、2011年の東日本大震災です。ちょうど創立25周年、第50回記念定期演奏会、ベートーヴェン「第九」の準備を進めている折に発生した大災害により、音楽を通じた復興支援活動の取り組みと、社会との絆を意識する中で、音楽がもつ力を再認識するに至りました。以後、地域と関わる演奏にも、より力を入れて来ています。

東日本大震災の発生以降、県内・近隣の避難所での慰問演奏を数回実施しました。特に、加須市の旧騎西高校に集団で避難されていた福島県双葉町の皆さんとの交流は、現在も続いています。第50回定期演奏会の際には、避難所のお客様を招待するために貸切バスをカンパで手配して、送迎も行いました。こうした交流を重ねる中で、住民の方々が本当に困っていることは何かを理解することができました。例えば「支援物資は沢山もらっているが、来週の小学校の遠足で使う子供用リュックサックが50個足らず困っている、本当に欲しいものが支援物資の中には無い。避難所周辺の自治体には既にあらゆる面で良くして下さっており遠慮せざるを得ない…」このような生の声に突き動かされ、急遽カンパを実施してリュックサックをお届けしました。音楽をきっかけに実現できた対話の力を身を持って体験しました。

こうした交流を経て、2013年からは、福島県双葉町の成人式の式典演奏を担当させていただいています。浦和フィルは毎年、有志ボランティアで福島県に出かけ、新成人の門出をオーケストラの生演奏で輝かしく送り出しています。

震災以前も、定期演奏会以外のミニコンサートは時折実施していましたが、こうした活動に触発され、さいたま市シニア大学、彩の国いきがい大学などシニア層向けのミニコンサート、小学校の土曜チャレンジスクールでのミニコンサートなど地域向けの演奏活動を積極的に実施しています。

続く

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